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2008年回顧 私のメディア体験

 2006年4月、大学院社会学研究科メディア学専攻前期課程に入学し、2008年3月に同課程を修了、2008年度は大学院研修生として在籍した。

■はじめに
 号外は、何か大きなニュースが起こったときに、日々、号を追って発行される朝刊や夕刊とは別に、臨時に発行される新聞のことである。号外発行の基準は、各社とも明確に定められているわけではないようだが、「大事件、事故のような幅広い読者から驚きを持たれるニュースや共感を呼ぶ出来事」(読売新聞東京本社広報部)などで、号外が発行される。
 私は2003年より、その号外の収集をしている。2003年3月20日、日本最北端の地、北海道稚内市を旅行中にイラク開戦の速報を知り、翌日札幌へ戻った際に北海道新聞社と朝日新聞北海道支社を訪れ、警備員に号外を貰ったのが、号外収集の始まりであった。尤も、それまで何もなかったわけではなく、最初の一枚は1997年に、2005年の万博が愛知に決まったとき、朝日新聞号外が新聞に折り込まれてきたものを、なんとなく保存していたもの。2003年11月に初めて新聞展を開催するにあたり「小林近現代資料文庫」を開設した。
 現在その所蔵枚数は7500を超えている。
 2008年、それらの資料を使って号外展を開催したり、また外部に提供したりして、メディアに取り上げられる機会が多かった。本稿は、そのメディアの取材を受けた経験と、メディアとのトラブルについて書いた。

■3年8カ月ぶりの号外展開催
 2008年7月19日~21日、愛知県名古屋市千種区にある、愛知淑徳高校で号外展を開催した。私にとっては2004年11月以来3年8カ月ぶり、4回目の展示会開催である(過去3回は静岡大学で開催)。愛知サマーセミナー実行委員会が毎年開催している「愛知サマーセミナー」の中の一講座として開催した。
 これまでの展示会では、不足の資料を友人の収集家に借りて展示していたが、今回の展示は自分の所蔵資料だけで展示をした、初めての展示会であった。
 展示は江戸時代末期の瓦版から、2008年6月の秋葉原の事件までの、主な事件・ニュースの号外を教室いっぱいに展示した。3日間で約250人が見学した。
 展示に先立ち、愛知県内の主要新聞社に号外展開催の旨メールを送ったところ、開催前日の7月18日に朝日新聞が、一日目の19日に中日新聞が、それぞれ取材に来た。両紙ともその翌日付の紙面に記事が載ったが、特に朝日新聞の記事は「新聞号外100点 小林さん収集・展示 きょうから愛知サマーセミナー」の見出しで、県版トップの大きな扱いで掲載された。
 取材の過程で、「顔写真を撮らせてほしい」と記者に言われた。「死んだか事件起こしたときなんかに使うんですか」と笑ってたずねたら、「いや、ひと欄で使うかもしれないから」と。そのときの顔写真が8月8日付の中日新聞東三河版に、本当にひと欄のような形で載った。
 名古屋での展示から2カ月半後の10月4日から5日、今度は私の母校である愛知県豊橋市の桜丘高校の学園祭で展示を行った。ここでも幕末から最近までの新聞や号外約200点を展示、10月5日付の新聞と中日新聞に取り上げられた。

■CBC「ノブナガ」に出演
 JNN系列の中部日本放送(CBC)で11月29日深夜(※CBCでの放送日。それ以外の地域では最大数カ月遅れで放送)に放送された番組「ノブナガ」に「号外コレクター」として出演した。
 番組では、私のコレクション紹介ということで、TV局側が選んだ①王756号(1977年),②太平洋戦争終戦(1945年)、③名古屋城金シャチの鱗盗難事件(1937年)の号外がまず紹介され、また私のお気に入りのコレクションとして、大日本帝国憲法発布(1889年)の朝野新聞号外、太平洋戦争中の共同号外(1944年)、美空ひばりさん死去(1989年)の号外を紹介。
 「今一番欲しい号外は何か?」と聞かれ、「ベルリンの壁崩壊の号外」を挙げた。

■沖縄新聞週間ポスター発見
 2008年1月、ある骨董屋から沖縄の新聞週間のポスターを購入した。

 「第6回新聞週間 10月1日-7日」とある。これがいつのものなのか等、よくわからないまま自宅で保管していたが、11月に沖縄へ行く機会があり、この機会にと持っていった。琉球新報、沖縄タイムスの2紙の取材を受け、取材から11日後の、11月17日付沖縄タイムス夕刊に掲載された。
 取材を受ける過程で、同ポスターは1956年のものであることがわかり、また現存は数枚であることが、偶然出会った旧蔵者からの情報で明らかになった。

■メディアとの問題
 以上、今年1年でメディアに取り上げられたものを挙げたが、一方でメディアとの間で問題も起こった。
 2008年7月、日本新聞労働組合連合(新聞労連)が「しんけん平和新聞」第4号を発行した。この新聞の製作段階で、当時の新聞労連委員長・嵯峨仁朗氏の依頼を受け、私も資料提供した。私が提供した資料は、二・二六事件当日の報知新聞夕刊で、決起部隊の「決起趣意書」を一面に掲載したために検閲に引っかかり、活字が削られた状態で印刷された新聞と、満州事変勃発時の新愛知号外が図版入りで取り上げられたほか、本文中でもいくつか引用がされている。ところが、前述の2つの資料について、私の提供であるはずのところが、「新聞社提供」と、提供元が書きかえられていた。これまで、いくつかの個人や団体に資料を提供したことがあるが、「提供元」が書き換えられたという経験は初めてだ。
 過去2回の『DECENCY』に、私も資料提供しているが、12号では個々のキャプションは無記入で最終ページの「協力者」欄に私の名前、13号では個別に「小林近現代資料文庫提供」と入っている。いずれも、「提供元」を書き換えることはしていない。
 7月末、嵯峨氏にメールで問い合わせたところ、嵯峨氏はこうなった理由について「著作権」「新聞社から求められた」の2つを理由に挙げた。
 現行の著作権法では、新聞の著作権保護期間は発行日から50年であり、新聞社に著作権はないこと、著作権の問題と、誰が原紙を所蔵し提供したか、ということは話が別、ということから、読売新聞東京本社と中日新聞社に問い合わせをし、①50年経過した資料は著作権フリーであること、②「提供」と入れるような要求はしていない、ということを確認する回答を受け取った。それを受けて2009年1月、新聞労連に対して質問書を送った。1月25日、大阪市内で嵯峨氏の後任で新聞労連委員長になった豊秀一氏と会い、新聞労連側のミスを認め謝罪し、次号(2009年夏発行予定)での訂正を行う旨の文書を受け取り、また口頭で説明を受け、本件は決着した。
 もう一つ、愛知県豊橋市に本社を置く、あるローカル紙が、10月の桜丘高校学園祭で4つの企画を取り上げ、5段見出し、本文43行の記事を掲載した。その中のひとつに私の号外展があり、その部分の記載が15行。ところが、私は同新聞の取材を受けていない。取材しないで記事にし、その結果15行の記述の中に3箇所の間違いがあった。うち2箇所は単純ミスであるが、1つは明らかに事実と異なる記述がなされていた。
 新聞社に電話して抗議したところ、「ネット上の記事は訂正するが、間違いの程度が小さいので大したことはなく、紙面での訂正は出さない」との返事。間違いの程度云々以前に、取材しないで記事を書いたこと自体が問題であるように思うが、そこのところは「記者に伝えておく」と答えたのみ。さらに向こうからは「どこで記事をご覧になったのですか?」とも聞かれた。
 同紙は2005年9月、新聞の号数を間違えた、とおわび記事を掲載した。号数ミスは紙面上で謝罪訂正し、私の件は訂正記事の必要なし。
 抗議したその日のうちにネット上の記事は訂正されたが、本文を直接書き換える方法で訂正がされており、事情を知らない人にはどこを直したのかわからないような「訂正」であった。(了)

写真説明(上から順に):
1,筆者(同志社大学内で撮影)
2,平成以降の号外の一部
3,08年10月5日、桜丘高校での号外展の様子
4,沖縄新聞週間のポスター
5,新聞労連発行『しんけん平和新聞』第4号(部分)
左下に写っている資料(報知新聞)が、「読売新聞社提供」ということにされた、私の提供資料。


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